侘び寂び?日本の美意識をヴェネツィアで見つける
イタリアに来た30数年前、ルームメートの日本人女性が、まだ右も左もわからなかった私に、在イタリア日本人の仲間を紹介してくれました。そんな中で忘れられない二人が、DさんとNさんです。Dさんはアーティストとして世界に羽ばたくためヴェネツィアのアカデミアで、Nさんは建築家になるためヴェネツィア建築大学で勉強をしていました。
Dさんは、アーティストらしく人生の難関を乗る越える毎日を送り、Nさんは日本の将来を担うエリートとなるべく栄光の道を歩んでいる…少なくとも、私にはそう見えました。
いくらでも時間があった当時、暇を見つけてはヴェネツィアに行っていました。Nさんは飛びぬけて博学で、彼の周りに仲間が集まると、アート、建築、歴史、文学、映画、そして人生について、朝方まで話し合うのが常でした。彼らの会話に加わる知識のなかった私も、皆の話を聞きながら、少しずつ知識を得て、議論の仕方を学び、借りた本で一生懸命勉強したものです。
Nさんは、仲間の中で唯一車を持っていて、彼の、いつバラバラに分解してしまってもおかしくないポンコツ車で、パラディオやスカルパの建築を訪ねる旅、教会巡り、と連れ出してもらっていました。
私がヴェネツィアに特別な想いを持ち始めたのは、そのころです。
朝方まで話し込んだ後、両手をのばすと手に届くような細い道を、カツカツという自分の靴の音だけを聴きながら歩いた夜。
深い霧の日、迷路のような道に迷いながら歩いていると突然目の前に広がる井戸のある広場。
完全な静寂の中、細い運河に突然現れそして消えていく無客のゴンドラ。
運河沿いの建築物の朽ち果てた退廃の美。
カルネバーレの時、中世の衣装を纏いお面をかぶった人たちがあまりにも街にマッチしていて、自分のいる時と場所が分からなくなる眩暈。
日本の実家にあった奈良原一高の、サンマルコ広場の回廊写真のカーテンの襞を実際に見て、現実の陰影の深みに引き込まれるような感覚。
ピカピカに新しい東京から来た若い私がヴェネツィアに強く魅せられたのは、歴史や人の栄枯盛衰、朽ちる美しさ、を肌で感じる場所だったからだと思います。
「侘び寂び」や「儚いもの」「無常の美」は、日本人独自の美感覚と思われていますが、私が日本を後にした頃は、古いものは壊し、何もかもピカピカで、西洋を真似た街や施設が溢れ、どこもここもガンガンにライティングされ、帰国の度に街の一角が全く新しくなり、人々が争ってブランド物の洋服に身を包み、西洋のどこかにいるみたいなレストランで高価な食事をし、「朽ちる美」なんて一瞬を争って消し去ろうとしているみたいでした。
私はイタリアに来て、ヴェネツィアで、そしてイタリアの各地で(都会を含む)「侘び寂び」や「朽ちる美」を発見し、日本文学や寺社の美意識を、イタリアの日常生活の中に見出していました。
建物だけではなく、生き方も含めてです。イタリアでは、何百年もたった古い家を丁寧に改装し、古い衣服を直し、祖母の時代から使われているテーブルクロスやタオルを繕い使っている人が普通だったのです。
蛍光灯を点けている家などなく、間接照明で影をつくり、街も夜になれば薄暗くなります。
デザイナーや建築家仲間から「陰影礼讃」の内容について何度も質問を受け、本を送ってくれるよう実家に頼まなければなりませんでしたが、高度成長期に東京で育った私が日常生活の中で陰影の美しさを学んだのは、イタリアの生活の中だったのです。
ドナルドキーンが「日本人の美意識」の中で述べた日本の美の概念、「暗示や余韻」「いびつさ、ないしは不規則性」「ほころびやすさ」「不完全さ」が、もし私の中にもあったとしたら、それはイタリアに来て自覚できたということです。
ヴェネツィアに話を戻します。
もちろん、若さあふれる楽しい思い出もたくさんあります。街のBarで、地元のおじさん達に混じって、ビールとおつまみだけで何時間も大笑いしながら話したこと。
カルネバーレ期間は、何もしないで歩いている方が場違いだったので、顔を白く塗り、何とかお金をかけずに奇抜な格好をして街中を闊歩していました。化粧なんかほとんどしなかった女子の少ない化粧品を持ち合って、男子に化粧をして、皆で笑い崩れたこと。
アクアアルタ(水位が上がり道や一階部分が水浸しになること)になると、皆で足にビニール袋をつけてゴム輪で止めて、大笑いしながら街を歩いたこと。
アクアアルタといえば、ある日、Dさんからミラノの家に泣き声で電話がかかってきました。
「かおりちゃん、どうしよう。もうベッドのすぐ下まで水が入ってきたよ。怖いよ~」
その声に思わず笑ってしまったのですが、本人にしたら笑い事じゃない。万年金欠病のDさんは、ヴェネツィアでは普通使われない一階の部屋を、安い値段で借りていたのですが、アクアアルタの度にひどい目に合って、若いからこそ耐えられるような湿気だらけの家に住んでいました。
その後、何十年たっても私にとってヴェネツィアは特別な街です。
2013年、Hands on Designの前身となるイベントをキューレーションした時に、ヴェネツィア・ムラノ島のガラス協会と仕事をすることになりました。その中で、参加していたのが、Memories of Italyでご紹介するErcole Morettiです。
腕力を必要とするガラス製造業らしく強面の工房主さんが多い中、Ercole Morettiを代表する従弟二人は、そのまま恋愛映画の主人公が出来そうなほど、やさしい風貌のハンサムな青年マルチェッロとパオロでした。
この最初のコラボレーションがきっかけで信頼関係が生まれ、Ercole Morettiのデザインコレクションをつくるお手伝いをするために、1か月に一度ムラノ島の工房に通い詰めました。
その後、Hands on Designでコラボレーションし、日本を始め色々な都市でのイベントに参加しました。
信頼できる人に出会うことは人生の宝物で、私にとってマルチェッロとパオロとの出会いは人生に豊かさを与えてくれる出会いでした。
彼らの工房については、Artisan’s storyの方でお話しします。